【 オクデの二代目 理八とタマ 】



阿部理八は私の父親(孝市)の父親(秀吉)の父親、つまり曽祖父で、我が家の二代目です。
明治9年2月2日に大渕甚蔵の次男として生まれ、明治34年に阿部嘉吉(私の高祖父)の養子になり、嘉吉の娘タマと結婚しました。

祖父の秀吉に「お前のひいおじいさんは車夫をやっていたんだよ。」という話を聴いたことがあります。車夫と言っても人力車夫ではなく荷車の車引きだという口ぶりだったと思います。
曽祖父が生きた時代、当地(小千谷市岩沢)はどのような様子だったのか「小千谷市史」などを参考にして整理し、曽祖父がどんなことをしていたのだろうと想像をめぐらせてみました。

15歳くらいで車夫の仕事を始めたとして、明治24年頃は県道魚沼線が開通したものの魚沼橋は架かっておらず舟橋でした。一方でその頃までは信濃川を利用した船運(十日町通船)が盛んであり、岩沢にも船着き場があって、そこに陸揚げされた物資は大八車で運ばれたそうですから、そのような仕事に従事していたのかもしれません。

ただ、その十日町通船も陸運の発達におされて明治35年ころには6隻に減り、大正期はわずかに水沢の「金山船」が通漕しているだけとなったそうですから、車夫の仕事を続けるのは厳しくなっていったのかも知れません。( 信濃川の船運 ・ 交通の発達 参照)

秀吉が15歳になったのは大正7年で、理八はその6年後の大正13年1月23日(満47歳)に亡くなり(戒名は「自證道空信士」)ます。祖父は「俺は(父親の理八に)百姓をやりたいと言ったんだ」とも話していましたが、つまり父親の車夫を継ぐことは考えていなかったということだと思います。
もっとも、それよりもっと早くに転職していたのかもしれませんが・・・。

 

理八の位牌、俗名「利八」になっています。

タマは嘉吉とサトの長女で、生まれたのは明治6年2月2日です。夫の理八は明治9年2月2日ですから同じ2月2日ですね。

理八とタマは、秀吉とシヅの二子を儲け、秀吉が跡を継ぎました。タマは88歳まで生きて昭和36年8月9日に亡くなりました。戒名は「宝玉妙寿大姉」です。

私は曽祖母のタマと遊んだ記憶があるような気がします。と言っても「一緒に地面に落ちた柿の花を拾い集めているシーン」だけですから、もしかしたらそのような写真を見て一緒に遊んだと思っているのかも知れません。




古いアルバムにタマの写真がありました。
昭和33年頃だと思います。
この写真に写っているのは左から秀吉・タマ・常夫(私の叔父)・フジ(秀吉の妻 抱かれているのは私)・ナカ(私の母)・孝市(私の父)です。




これも昭和33年頃だと思います。
この写真に写っているのは左からタマ・フジ(だと思う)・私(だと思う)です。




正月か何かで親戚が集まった時の写真、昭和35年頃だと思います
写っているのは左からフジ(祖母)・堀口キヨ(叔母)・三郎(叔父)・常夫(叔父)・タマ(曾祖母)・秀吉(祖父)・伸一(私)・ナカ(母)・堀口正(義理の叔父)・孝市(父)です。
皆笑顔で、良い写真だと思います。




タマの位牌です。

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